サイトアイコン 本とヴォル・ド・ニュイ 2nd

「牛を屠る」/職場としての屠殺場

著者が、作家専業となる前に10年以上働いていた屠殺場の様子とそこで働いた日々について書いた本です。

淡々と・・・というと少し違うのかな。
終始落ち着いた筆致で書かれています
なのに何となく熱量を感じる。
迫力っていうんでしょうか。

先日取り上げた「わたし、解体はじめました」とはまた違う角度で、
わたしたちが「肉を食べること」、その肉が提供されることについて
今までとは異なる視野、心持ちを得られた本でした。

大宮市営と畜場

茅ヶ崎育ちの著者は、1990年(平成2年)7月に大宮市営と畜場に職を得ます。

前年に北海道大学の法学部を卒業した著者は「御茶ノ水の小出版社」に就職するも、上司と衝突して1年で失職。
その後2ヶ月ほど「山谷からビル解体や水道管敷設の工事現場に出て」働く日々を送ります。
しかし

技術も経験も求められない下働きをくりかえす日々はつらかった。
同じ肉体労働をするにしても、おいそれとは身につけられない仕事の中で鍛えられたかった。

本文より

そう考え職業安定所で希望職種を編集者から屠殺場の作業員に変更を申し出たところ、あっさり、当時の住所から通勤しやすい大宮の現場を紹介されます。

「はい、大丈夫ですね。現在も募集中です。」

本文より

自分の経歴からして違和感のある応募だし、面接では試験官を納得させられるだけの志望動機を言えるわけでもない。
そんな不安を抱えながら面接に行った著者ですが、あっさり採用。

学歴を見た総務の人から一時事務所で働くことを勧められるも現場で働きたいと言うとすんなり通過。
作業部付きの常務から
「やりたいなら、やってみな」
と入社を認められた著者ですが、その帰りがけにいきなり洗礼を浴びます。

ところが外階段を降りながら下を見ると、作業課の男性が二人、私を待ち構えるようにして縁石のコンクリートブロックに座っている。(中略)
そして私が階段を降りると、年配の男性がおもむろに立ち上がった。

「ここは、おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ」

凄みのある大声が響きわたり、私は震えあがった。
確かにその通りだと思いながらも謝るわけにいかず、私は百八十センチを超える男の前を通って帰路についた。

本文より

厳しい先制パンチは受けましたが、かと言って職場に拒絶されたわけでもありません。
初日には

「どうだったい」
「驚いただろう」
何人かが声を掛けてくれて、私は無事に一日が済んだことに安堵した。

本文より

最初に著者を怒鳴った新井さんは「おっかねえけど真面目で偉い男」。
新井さんや周囲の人たちに教えられながら新人なりの失敗や戸惑いを通過しつつ著者は現場の仕事に慣れていきます。
3ヶ月後、著者は見習い期間を無事終え、正社員として採用されました。

それから10年半、著者は腕を磨き道具を磨き、一人前以上の作業員になっていきます。

そしてこの屠殺場での生活を基にした小説「生活の設計」が新潮新人賞を受賞。
「最初は発表の意図はなく」「新潮新人賞を取ったあとも大宮食肉で働くつもり」だった著者ですが、生活の変化により、ついに退職を決意します。

その後の三週間はほとんど休まずに出社して、後輩たちに知っているかぎりの技術と知識を伝えた。

(本文より)

最後の仕事が済んだあとに、ナイフもヤスリも全て譲って、私は十年半勤めた大宮食肉に別れを告げた。

(本文より)

生きていたものを肉にする

「不慣れな仕事」を始めた著者ですが、投げ出すことも逃げ出すこともなく、場に慣れて行き腕を上げていき、自分のための道具を整えていきます。

その過程の描き方に「熱血性」はなく、
最初に怒鳴られたことに対し「見返してやる」などの気持ちや
ここでやっていこうとする「必死さ」などの感情が、表現されることはありません
(実際はどうだったのかな)。

文中に書かれているのは、「そこで働くことを決めた」人が当然のように重ねていく時間。
しかしそれでこそ心に響くような、圧倒されるような感覚があります。

現場のリアルは、とても興味深い!
作業の様子や職場の人々の描写にはつい引き込まれてしまいました。
作業の具体的なやり方と共に、日々がいかに重労働であるか、いかに厳しい場面があるかや粗末に扱われて運ばれてくる牛の悲惨な様子などがありのままに書かれています。

そして、繰り返しになりますが、著者の筆はそれらを過剰な感情や温度を交えずに書き記していくのです。

その現場で行われていた「屠殺」の本質について、よくわかる記述がありますので、少々長いですが引用しておきましょう。

そうかといって「食肉処理場」や「家畜解体場」と言い換えるのにも不満が残る。
それらの一見散文的な表記では、なによりもまず生きた牛や豚が叩かれ、血を抜かれ、皮を剥かれ、内臓を出されてのち、ようやく食用の肉になるのだという事実が隠蔽されてしまうからだ。

本文より

ところで、われわれは、「屠殺」と呼んでも、自分たちが牛や豚を殺しているとは思っていなかった。たしかに牛を叩き、喉を刺し、面皮を剝き、脚を取り、皮を剝き、内臓を出してはいる。
しかしそれは牛や豚を枝肉にするための作業をしているのであって、単に殺すのとはまったく異なる行為なのである。

本文より

けれどそれらの作業はやはり、“生きたもの生きていたもの”を食肉にする過程に違いはないのです。

喉を裂いたときに流れ出る血液は火傷をするのではないかと思わせるほど熱い。
真冬でも、十頭も牛を吊せば、放出される熱で作業場は暖まってくる。
切り取られ、床に放り投げられたオッパイからは、いつまでたっても温かい血がにじみ出る。

本文より

生き物が“食肉”に変えられている場があることを、一度意識してみること。
そこで行われていることに考えを至らせてみること。

それを通ったあとでまた商品として並ぶ肉を食べるということは
確実にそれ以前とは違う人間になることかな、と感じました。

読む人を引き付ける力のある一冊です。
おすすめ。

牛を屠る (双葉文庫)
著者が作家専業となる以前、1990年から埼玉の屠畜場に勤めていた日々を綴る。「おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ! 」と怒鳴られた入社初日から10年半、ひたすらナイフを研いで牛の皮を剥き続けるなかで抱いた、働くことの実感と悦び。仕事と人...

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